現代数学が難しいnつの理由

世の中には「大学での数学は哲学になる」という言説がある。この言説自体には多くの立場の人々から様々な賛否の意見があるだろうが、とにかく「大学で学ぶ数学は難しい」という事実は誰しもの共通認識であるように思われる。では、何故現代数学は難しいのか?その答えは必ずしも単一の理由ではないだろう。そして、その中のいくつかは現代のテクノロジーや一部の啓蒙家による新たな活動を活用すれば、乗り越えることができるものも多いと考える。以下に私見をまとめてみたい。

●その1:まず、そもそも数学の厳密さは難しい

第一の理由として、数学の厳密さが挙げられるだろう。数学は、証明に至るまでの道に一つでも間違いがあれば全てが無となる学問である。世の中にここまで取り扱いに神経を使う仕事はなかなかないだろう。一般的な「頭脳労働」と呼ばれる仕事においては、「Done is better then perfect」という言葉があるようにやはり基本はスピードが大事であり、100%の完璧である必要はないし、完璧などそもそも存在しない。理論のようなものでも「アイデアを大体理解していればOK」というものが多い(無論、それはどちらの優劣の問題ではないのだが)。そのため、数学の一歩でもミスをすれば即死という異質性は他分野(情報や物理であっても)の方々の参入を決定的に困難にしていると思われる。そして、多くの場合において応用をメインにする方々にとって、その厳密性はtoo muchなのである。ここにユーザーのニーズと大きなギャップが生じてしまっている。

●その2:高校数学とはスタイルが大きく異なる

また、高校数学とのスタイルの大きな相違も大きいだろう。算数から中学数学、中学数学から高校数学へといずれの段階にも多少のギャップは存在するが、高校数学と大学数学のその差はとても大きいと考える。高校数学までは「まず最初に少々理論を聞き、その後とにかく多くの計算をして問題を解いていく」という形の演習形式の勉強法が極めて有効的だ。若干暴論ではあるが、細かい言葉の定義などは若干曖昧であってもあまり問題ない。しかしながら、大学の数学はとにかくその点が細かい。まずは大学1年生の微積分でε-δ論法を習い、今まで曖昧にしてきた「収束するとはどういうことなのか」という事を明確にするところからスタートする。高校数学と同様の感覚でそれに望むと「いかにも当たり前っぽいことを長々と堅苦しく書くことを求められ、面白くない」と感じ、投げ出してしまう人も少なくないのではないだろうか。これらの抽象化の背景には数学の基礎付けに苦労した歴史的背景など語るべきものも多いのだが、それらが授業で説明されることも少ない。そういったコミュニケーション不足が「大学に入ったら数学が訳分からなくなった」といった印象を多くの人に与え、「大学で数学は哲学になる」などと例えられる言説の根幹になっているのではないかと考える。

●その3:実はSelf-Containedな教科書は少ない

一方で、そういった抽象数学の手法に慣れ親しむことに成功した方々でもいつでも即死することができるのが数学の魅力(魔力?)である。例えば、手元にあるミルナーの名著「特性類講義」を開いてみよう。平和に最初の3章を読み進んだ読者は第4章で突如として特異コホモロジー理論を仮定される。とはいえ、付録Aに解説が書いてあるのでめげずに進めば、この証明は[Eilenberg-Steenrod][Spanier]に書いてあるなどと再び遥か彼方に飛ばされる。どこの誰がこんな古書を持っているのだろうか。このように1歩進んでは1歩戻り、文字通り一進一退の攻防をした方々も少なくないはずである。最近でこそ現代的な目線で整理され、一定のSelf-containedさを意識した教科書も増えてきたようだ。例えば、層のコホモロジーについては以前はIversenが定番だったが、最近出た志保先生の本が非常に丁寧であるとの評判を伺う。しかし、やはり「可換環論はAtiyah-MacDonald」「代数幾何はHartshorne」などと古典的名著の存在感は強く、なかなか教科書の世代交代は進まず、古典はなかなか読みづらいものが多いのも実態である(特段前述した2冊を否定するわけではないが、間違いなくbest practiceかといわれると疑問である)。勿論、こうやってあっちに飛ばされ、こっちに飛ばされ、行間を埋め、という作業を繰り返して人は数学を身に着けるというのも一理ある。しかし、現代的視点の分かりやすい教科書の少なさは、人々の新規参入を困難にしている点に異論はないだろう。

●その4:勉強することが膨大な一方で全体の見通しが悪い

このように、いつの間にやら1冊の本を読むつもりが膨大な量の周辺文献をあさることになる数学を学ぶことは、土砂崩れなどで大きく道が崩れた山を登ることに似ているかもしれない。しかし、山登りとの明確な違いは山では「ここの道が崩れているので登らないように」などの「道しるべ」を先人が立てていってくれるが、数学ではそういったものがほとんど存在しない。それもそのはずである。数学は日々成長しているが、書物に書かれた内容は変化しないからだ。その結果、毎年新たな志を持った人々が数学にチャレンジしては、1合目に潜む土砂崩れに巻き込まれて去っていく。うっかりBourbakiの森に入って、そのまま明後日の方向に連れていかれた人はどれだけいただろうかと思う。

そして、これが我々がMathpediaプロジェクトを推進するモチベーションの一つでもある。Wikiを用いて日々アップデートできる形式をとりながら、出来る限り「数学に対する見晴らしを良くする」ことを意識した形で記事を作成し、数学の森で迷子になる人を一人でも少なくしたいと考えている。数学の森は日々大きくなっており、新たにこの山に登る人たちにとっては難易度は日に日に増している。私は本来はこうやって「数学を整備する」仕事がもっと学術界で評価されるべきではないかと思っているが、そうはいっても現状ないものはないので、個人の活動としてやっていくつもりだ。

●その5:大学コミュニティと外部の間の情報格差が大きい

このような「道しるべ」の少なさの帰結は、結局のところ「現代数学を議論できる人たち」のコミュニティに属しているかどうかで、決定的な情報格差が生まれてしまっている。こういった情報格差はビジネスをやる上では非常に重要だ。その参入障壁を活かして、自社の商品の優位性を確保し、高い利益率を享受できる期間を少しでも長くする、というのは当たり前だ。しかし、数学のような学問でこういった秘密主義を採用するのはいかがなものかと思う。酷いケースでは、一部の数学者は出版されていない「関係者とのクローズドな議論」を論文の出典にするような例もある。

いうならば、IT産業のように情報のオープン化が全く進んでいないのである。それぞれのグループがそれぞれの独自規格のメインフレームコンピューターを作り、おそらく互換性はあるのだろうが、情報が閉じていることもあり結局よく分からない状態になっている。例えるならばそんなところだ。面白い事にこれと似たようなことを「数学の基礎をめぐる論争」の中でMacLaneが何十年も前に既に指摘している。ただ、これは逆にいえばインターネット時代におけるアップサイドともいえるだろう。今後それぞれの学派の「独自規格」の間の関係性などがオープンな場で整理されることで、分野間の行き来がより便利になり、数学の更なる発展に繋がればよいと考えている。

●その6:現代数学を学ぶことがなかなか仕事にならない

そして少し毛色の変わった話になるが、経済的な側面も重要だろう。前述の通り、現状は数学を学ぶ上でいろいろと高価な数学書を買ったり(よほどの天才でない限り)大学のコミュニティに属していることが重要になっており、結果的に参考書にも大学の学費もそれなりにお金がかかる。一方で、数学でお金を稼ぐには今のところほとんどが「大学の研究者」となっており、中高の数学教師になるといった例を除けば「大学数学を用いる在野の仕事」がほとんど存在しない。一般人とプロの間の中間点にあたる仕事が乏しいのである。これでは学問の裾野が広がらないだろう。

その一方で、個人的な肌感覚としては「別に最先端の数学じゃなくてもいいから、現代数学の入り口に連れて行ってほしい」という一般人のニーズはそれなりに多いようにも感じる。例えば、私の会社の同僚でも「文系で数学全然分からないけど、面白いからヨビノリみてる」などと、聞いてもないのになぜか私に報告してくる人は何人かいる。「数学教室 和」のような塾が出てきたのもそういったニーズはやはりあるということなのだろう。この記事にもまとめたが、数学系Youtuberもそれなりの登録者数がある。こうやって世の中の数学需要を盛り上げて、今後現代数学を学ぶ人々への「セーフティネット」ともなる仕事を拡充していくことは、在野の人間にもできる数学への貢献だと思う。

●これらをどうやって乗り越えるか

このように数学の難しさを列挙してみたが、意外にも各方面においてその「突破口」は徐々に見えつつある。SNSの普及で「数学コミュニティ」のオープン化は急速に進んだ。数学系Youtuberの普及により大学数学の初歩の「高校数学とのギャップ」も丁寧な動画解説を見れば解消されてきているのではないだろうか。昔私がクローズドに行った圏論祭のノートもalg-d.comに整備してまとめられ、今では早くからKan拡張を使いこなす学生も少なくないようだ。「数学の道しるべ」に関しては若干まだ限られているようには感じるが、それは今後Mathpediaなどで我々が拡充していきたい。

何はともあれ、それでも現代数学はそれでもとてつもなく難しい。それに果敢に挑み、開拓し続ける人々には尊敬の念を禁じ得ない。数学に挑む人々が、数学の本質的な難しさとのみ戦い、それ以外の些細な事柄によって躓かされることがなくなる。それがMacLaneが上著で論じた「21世紀の数学のあるべき姿」なのではないだろうか。そのような時代が来ることを、私は切に願っている。

コメントを残す